昭和42年01月02日 朝の御理解



 信心に修行はつきものと言ったように、信心に修行はつきもの。その修行に徳が伴うということです。おかげが伴うてくる。信心に修行はつきものです。ですから、その信心をさせて頂いておるという、その信心の尊いところは、その中味であるところの修行が、どのようなふうにでけておるかというこが、その信心の値打ちを定めるものだと、私は言うてもよいとおもうんです。
 今、皆さんの中にも、信心、その修行はどういようなものが一杯である、つまっておるだろうか。私、今朝からいろいろ神様に、お知らせをお夢の中に、初夢頂きました中に、天ぷら信心。あの天ぷら信心、天ぷらというのはですね、中身がないということ。いや、中味がお粗末だということ。見かけだけはよい信心しよるごとあるけれども、ね、中味はお粗末だと、いうならごまかし信心だということなんです、ね。
 ではないかと言う事をやはりいつも検討していかなければお徳は伴わない。ほんとのおかげにならない。そう言う事を具体的に頂くんです。今日の御理解、先日ですね、あのどなたがお供えなさったか知らんですけど、こんな大きなお湯飲みを頂いたんです。それにその、清水の次郎長の、真っ黒いそのえがけに、金の字でずうと書いちゃる。それにその、清水の次郎長のなんていうですか。
 子分の二十八人集の名前がずうっと書いてあるんです。おそらく、子供さんが旅行かなんか行ってから、お土産に持ってきよるじゃなかろうかと思うんですけれども、まあ珍しいお湯のみです。はぁこれが椛目の二十八人集だろうかというよなメンバーをずうっと頂くんですね。そしてその下にです、様々にその天ぷらが揚げてあるとですもんね。まあいうなら漫画風のそのお夢でした。
 それは様々なのがありますよ。皆さんはどう言う様な風に思われるでしょう。われこそ、親先生の二十八人集だと思う人はひとつ思うて見るといいですね。一番例えば天ぷらでありましても、素晴らしいのはやっぱり海老天ですね。もう天ぷらのこれは最高とされておりますもん。中身が素晴らしい、ね。例えばですね、もう本当に一日、例えばそのまあいうならば修行のように見える、いわば苦労をしておる人があります。
 一日中一生懸命働いて、ね、けれどもそれをですね、ひとっつも修行として受けていない。これなんかは惜しいですね。やはり神様が修行として受けて下さるためには、私どもがそれを修行と思わなければ、修行にはならんのです、ね。私はまだ頭が本当じゃ御座いませんです。昨夜からおかげを頂いておりますけれども、御理解を頂いておりますけれども、なんかこう頭の中で纏って行かんのですね、頂いておる事が。
 今朝もなんかそういうまだ感じですから、どうぞ皆さんが、めいめいにひとつまとめていただきたいと、ね。信心に修行はつきものだと。その修行におかげも伴やあ、お徳も伴うのだ。その修行いかんによってそれがお徳になるのです、ね。その中身であるところの、私は、私どもの信心がです、ね、中身がいわゆるごまかし信心。いうなら天ぷら信心。中身がお粗末というよなことであるならばです
 その中身を今年こそは、立派な、ほんとに神様が修行として受けて下さる修行をです、私はその質を心得て信心をさせて頂かなければならないと思うのです。ばからしい話でしょうが。もお、それこそ、朝暗いうちから、夜はいうならもう遅うまで、ね、働いておる人があります。尊いです、働くということは。けれども、それがほんとに私は一人で、どうしてこうげな苦労をせんならんだろうかという、その働くそのことは尊いにしましても、信心としてはもう全然尊さはないです。
 値打ちはないです。今日も一日修行にお使い回しを頂いて有難いと、ね、有難いというものがでて、始めてそれが修行なのです。ですからそのへんをやっぱりその事に対する所を取り組みというものが大事にされなければですね、いわば修行らしい修行でなからなければですね。修行らしく見えてもそれが苦労である場合は、それが値打ちがないんです、ね。天ぷら信心と言われる様な事ではそのでけません、ね。
 例えばんなら、その例え天ぷらでありましてもです、中身が素晴らしい、ね。そしたら、それはもう天ぷら信心ということではないでしょう。もう必ず、神様がですね、その修行を受けて下さる。いわば、ぞくに申します天ぷらということは、ね、内容が、内容がごまかしであったり、つまらないことを天ぷらというけれども、ね、それは神様が受けて下さる天ぷら、ね。天がそれを保証して下さる。
 天その、字をこうもじってみますとね、天、天が保ってくれる。天地の親神様がです、私どものそれを保証して下さるものでなからなければならんです。お徳というのは、その人の修行が裏付けさ、お徳になるのでございますけれども、神様がそれに保証して下さるからおかげが伴うのです、ね。いわゆる神様の御信用なんです。私どもはもう一日中です、もう寝ておっても起きておっても、どんな場合でも修行ということを頭から外しちゃなりません、ね。
 そこで修行の内容を、みなさん、こう、私がこうやってお話をさせていただいとる間にも、はー自分の修行内容にどういものであろうかとこう感じられるだろうと思うですけれども、第一の修行がお参りの修行。だからみなさん、朝参りなんかなさっておられますのは、その修行をしている、でけておられる、ね。 朝ねむたいけども、はよう起きられる修行。もう金光様の御信心にですね。
 この朝起きのでけらん人は、もうそりゃ例え、どういう良い信心がでけても、私は、それは、たいへんな割引されると思うですね。皆さんはその第一の、お参りの修行はでけておられるわけです。次にはね、み教えをいよいよ、行じさせていただくという修行。これになるとです、金光様の御信心頂いとっても、非常にでけてない人が多いです。み教えを行じてない、ね。
 三代金光様なんかは信心のコツをある人が尋ねた時にです、教祖様のみ教えを守るほかありませんと仰ったぐらいです。そういう大事な事をです、信心させていただきよって、お参りさせてもらいよって、朝に晩に参りよっても、そのみ教えを行じていないという。これじゃほんにつまらんでしょうが。第三の修行が、もう椛目で一番やかましくいわれる修行なんです。皆さんどういう修行と思うですか。
 神様が求め給う修行です、ね。神様がそれぞれ、氏子一人一人のうえに、神様が求め給う修行なんです。それを私は、成り行きと申します、ね。自然の働きとも申します。私ども一人一人の上に、そういう働きかけがあるのです。自然の中に起きてくる、ね、困ったとか難儀とかそういうことをです、合掌して受けていく修行なんです。それを元気な心で受けていく修行なんです。
 いうならばこの三つがですね、もう今日こそ完璧にこの修行を頂きぬこうと努力するとです、でけん事ないですね。朝参りだってでけん事はないでしょ。なら一日の私の生活をです。御教えに元ずいた生活にする事なんです。一日にの中に起きて来るその事柄をです、神様是によって解らせて下さるんだ、こういう修行させて下さるんだ、というてそれを受けていく事ですからから。
 もうその気になりゃ出来ん事ないです、ね。私は信心修行の内容には、そういう三つのの修行がいっぱいなからなければならないと思うです、ね。信心が尊いと言われるのは、その内容のその修行のいかんと私は思います。そういう、例えば修行を一日のうえにです、ひとつ本気で行じさせていただいてごらんなさい。たしかに、もうありがたくならんでよかと思たっちゃありがとうなります。それが助かりなんです、ね。それがその人が救われいきよる姿なんです。お参りの修行。み教え行ずる修行。
 神様が私共一人一人に求めたもうところの成り行きの中に、自然の働きの中に求めたもうところの修行を、それをありがたしと元気な心で、ありがたい心で合掌して受けていこうという修行。この私は三つの修行がです、まあ完璧とはいかなくても、そこんところにいつも焦点を置いて。その事を取組んでいくならば、そういう修行こそが、私は同じ天ぷらでありましてもです、いわゆる神様が保って下さる。
 神様が保証して下さる、それこそ海老天のような修行じゃなかろうかとこう思います、ね。海老のお知らせを、いつも修行と頂きます、ね。衣でごまかしちゃなりません、ね。中身を検討させてもらい、いわゆる自問自答させてもろうて、自分の修行というのがです、どの程度のものかと。こんなお粗末なことでは、やはりおかげはお粗末になってくるはずだと悟らせてもろうて、本気でここんところ取組んでいかなければと思いますね、
   どうぞ。